PROFILE

代表プロフィール

代表社員 辻本 良一

代表経歴

1949年(昭和24年)7月 和歌山県生まれ

茨城県土浦市立第一小学校入学
土浦市立真鍋小学校転入茨城県真壁町立樺穂小学校(現・桜川市)・同町立桜川中学校卒業
 小学生時代激しいイジメにあうが克服し、生涯の友を得る。
茨城県立下館第一高等学校卒業
 校内マラソン大会3年連続1位、3年次よりボクシングを始め卒業後も続け茨城県チャンピオンになる 

経歴詳細

  1.  
    社会人としてスタート

    1968年(昭和43年)高校卒業後 下館市(現・筑西市)地元 繊維問屋入社、立ち上げ間もない学生衣料部門配属 上司と2人体制 その後、21歳最年少でチーフ職(課長待遇)拝命、学生衣料部門責任者となる。
    茨城県内ほぼ全域から小学、中学校のトレーニングパンツ、トレーニングシャツの指定を受ける。当時8億円強の売上を上げる。
    現在卸先の衣料品店が衰退、淘汰され繊維問屋も苦境に立たされている中、50数年経て尚、学生衣料部門だけは存続し支持を受け続けている由。経営力に優れ先見の明があった、社長の薫陶を受け且 凄腕の上司の指導を得ることができた。
    (私が退職後このお二方を中心に食品スーパーに進出、地場下館初の上場企業となる) 営業(毎日が新規開拓)、仕入れ(適正在庫を保ちながら即納体制)、組織の確立(年少者が組織を統率する人間の複雑さ)等を学ぶ。

  2.  
    独 立

    24歳・社会人生活5年9か月にして突然のサラリーマン人生の幕を閉じることになる。
    社長と衝突し心にもない辞表を提出(妻も無理やり同時。職場結婚していた) 1973年(昭和48年)12月30日に退職。部長にするからと引き留められるが条件闘争ではない為、石油ショックの真っ只中であったが職を辞す。

    1974年(昭和49年)2月 栃木県小山市 6坪のファンシーギフトショップ開店し創業する。(テナント)

    1976年(昭和51年)茨城県下館市(現・筑西市)23坪の自社物件(店名)グリーンハウス下館店開店(茨城県初の贈答品店) 店名の由来は、安心や心のやすらぎの色である緑色(グリーン)の家。

    1978年(昭和53年)4月19日 株式会社グリーンハウス設立(資本金2050万円)法人化。

    その間、下館本店を毎年増築し最終的に250坪(売場面積100坪・事務所他150坪)にする。

    1983年(昭和58年)同県 下妻市に総坪 360坪(売場面積130坪)の当時としては全国最大規模のギフトショップオープン。

    1985年(昭和60年)栃木県真岡市に総坪 270坪、茨城県結城市に ギフトショップとしては超大型店である売場面積300坪の店を次々と開店し、最終的には店舗数13店舗のチェーン店をつくりあげる。
    (その内訳大型店4店 小型店9店)総売上12億円超を売り上げ、ギフト贈答品業界の当時としては全国トップクラスであった。

    その間 関連会社 有限会社グリーンコーポレーション・エコセール株式会社設立。

  3.  
    課外活動

    <雑誌 商業界>が主催する本ゼミナール(会場=箱根小涌園)の勉強会を受講するようになる。
    毎年2月に行われ、全国から3000人を超す商人が一堂に集まり会場を埋め尽くし、三日間に渡り著名な講師陣の指導をうけ、“店は客の為にあり”の理念の基、分科会や先輩経営者の部屋で昼夜を徹して成功体験の薫陶をうける。
    全国各地で小規模スーパーの黎明期であり、ここで知り合った経営者同志が意気投合・合併し、全国スーパーとして、ジャスコ(現・イオングループ)、ニチイ、ユニー等が誕生していく。
    各地に“雑誌商業界‟後援の同友会組織が作られ当 下館市(現・筑西市)に於いても、二十数名の新進気鋭の同友を募り、商業界下館同友会を設立、私が初代会長をつとめる。 商業界専任コンサルタント 渥美俊一先生のチェーンストア理論を学び、ジャスコ(発祥の地は四日市 岡田屋呉服店 現・イオングループ)イトーヨーカ堂(現・セブン アイグループ)等を筆頭として当時小さな商店が現在の巨大流通企業を築く礎として、渥美先生が指南役であった。
    雑誌商業界が全国の商人のお世話役として私も委任され、ジャスコ創業者 岡田卓也氏(現・イオングループ名誉会長)も同じお世話役であった。

  4.  
    市長選出馬要請

    商業界下館同友会を通じて勉強、研鑽を積み重ね 各自、各社の発展を図り乍ら、同時に地域の活性化、地域商業の在り方、地域間競争に負けない為にはどうしたらよいか等、自由闊達に議論を重ねる中、地元商人が中心となって郊外にショッピングモールを創ろうとなり、趣旨に賛同し共に活動できる人達を募り、一社百万円・50社集め、資本金・5000万円の下館新都市株式会社を立ち上げ、私が共同代表取締役となる。そこで行政との関わりが必要となった。
    時の市長は、下館駅北口前に総合スーパーを核として誘致し駅前再開発・一方北口から稲荷町商店街を通り北ヘ国道50号へ延びる距離約400米の中間の商店街の一角を、これも同じく総合スーパーを核とする中央再開発、2カ所の再開発を公約していた。
    再開発自体は良(りょう)としても 二カ所とも総合スーパーを核とする複合施設を作る等、時代錯誤も甚だしい、市長(生業・不動産屋)とその取り巻き達の我欲と無知がもたらす政策であった。

    水戸から群馬県に伸びる国道50号線 夏季は群馬・栃木方面から大洗等へ 海を求めての往来による渋滞は地元住民にとっては死活問題であった。
    時の市長は北にバイパスと公約。私達は隣接市町村から流入し易い南バイパスと主張。
    1988年(昭和63年)市長選改選が一年弱の時期、私達の活動を耳にし、対立候補を探していた地元選出の県議会議員から、私に出馬要請があった。当時38歳、後継者も育っておらず政治に関心がなく、寝耳に水であった。
    しかし私達の構想は行政と切り離せないとも感じ始めていた事も、確かである。
    無投票で4選との流れであったが、そこで私と同じ下館新都市株式会社の共同代表であるN氏(タウン誌発行者・60歳後半)が立候補することとなった。提示されたのが、私達 商業界下館同友会が支援と、そして私が選挙統括責任者に就くことが条件となった。決定したのが告示3か月前である。
    水滸伝の梁山泊の如く選挙事務所に集まり短期間での激しい選挙戦、結果1000票の僅差惜敗。若手しかも全員が素人の集団が短期間で大健闘したと世間から大注目を受ける。

  5.  
    市長選落選

    来る4年後(1992年)次はお前しか居ないと指名を受け、私もその気になってしまった。
    僅か三ヶ月の選挙、負けたとはいえ惜敗である“俺はできる”と勘違いしてしまった。成功する組織体には必ず軍師がおり泥をかぶる補佐役がいるものだ。
    劉備玄徳に対する軍師 諸葛孔明が如く。私が諸葛孔明役であったと例えるには面はゆいが、私には諸葛孔明役がいなかった。“俺はできる” ではないのだ。地元地区後援会を立ち上げ、4年間。来る市長選に立候補当選すべく、<人・金・時間>をかけた。

    5期目を目指す現職・新人の私(42歳)・市役所民生部長を最後に定年退職したS候補の三つ巴。事前電話リサーチでは私がトップ。
    しかし私の舌禍事件で 市議会・マスコミ等で過激な取り上げられ方をされ評判を落とし、結果惨敗、市役所OBの新人が当選。

  6.  
    倒 産

    しばらくの期間、ギフト贈答品は包装が付き物なので落選した辻本からは敬遠。特に企業関係は私を支持して呉れた方達も避けがちであり、当然である。私が抜けがちだった選挙活動の4年間、それが為の売上低迷と重なり苦戦する。
    昨今の選挙事情と違い、飲み 食い 貰いは 当然。勿論買収等の取締はあったが現代程厳しくはなく、有権者もそれを要求した。政策を前面に打ち出していたが,それを受け入れて呉れた方は少数派。
    4年間の長期間、自己資金で賄っていたが、選挙が近づくにつれ支援者からの要請が激しくなり自己資金が枯渇。会社への貸付金を回収する始末。

    上記の如く出店に伴い資金需要逼迫。主力銀行とて敗軍の将には引き気味。ならば自前で調達と、商法に則り、少人数私募債発行を企画、J銀行でも先例なし(J主力行でも銀行保証の社債は有)、一回発行 一口 百万円 49口まで。一回発行額4900万円調達。
    2回迄と決めていたが、薬物中毒者が一度試すと辞められないと巷間いわれているが、長年築き上げてきたグリーンハウスの信用と社員達の努力が相まった結果、最終的には 五億円と巨額となった。
    皮肉ながら自分が思っていた以上に信用があったことに驚く。しかし乍ら、利回り支払いとそれに伴う税金。預り期限に伴う償還。売上が二倍三倍と上がらなければ負担が重い。
    そこまでに手をこまねいて居た訳ではなく固定費が掛かる店舗展開をやめ、主力店だけに縮小し、返礼品としてポケットサイズの葬儀カタログを制作(全国初)、特許取得と商標登録認証取得。メーカーとして、茨城県経済連(全農)の指定をうける。
    全国の葬祭業者・互助会に納入すべく営業をかけ始めていた。社内では“上場するんだと”目標を定め社債を持って戴いた方々に恩返しをすべく燃えていた。
    それと並行して社債から株式に変換し財務改善を計る段取り中の矢先、2009年(平成21年)11月不渡りを出し倒産。負債10億(内、社債5億円)。

  7.  
    誓 い

    有限会社グリーンコーポレーションは妻が、エコセール株式会社は長男(元・グリーンハウス役員)がそれぞれ代表として運営している。私は創業者として妻をサポートしている。 人生100歳時代。現在73歳 陸上トラックに例えると第3コーナーから4コーナーに差し掛かった所、後期高齢者の入り口手前である。

    2009年11月破綻から丸6年、社員始めご迷惑をお掛けした債権者の方々に懺悔の日々でした。

    2015年、体力の衰えを感じ始めた65歳時、真言宗の阿闍梨である友人から真言宗開祖、弘法大師・空海上人が高野山を開山して1200年祭を、奇貨として四国歩き遍路八十八カ所を推奨され、意を決して挑む。2015年11月、四国遍路88カ所1300㎞、完全歩き遍路走破貫徹(一日平均30kから35k)。今までに関わりあった皆様の繁栄と安寧を、一か寺ごとにご祈願し最後に高野山にて結願する。人間その気で挑めば,両足底皮膚が全部剥がれ足を引きずり乍らも歩き続けることができた。改に生を強く意識すると共に、人生のバランスシートを改善すべく誓いをたてる。

  8.  
    再 起

    数年前より仕事の傍ら法律の勉強を始める(司法書士試験)。勉強を深めていくなか、次第に疑問を感じ始めてきた。運よく難関試験を突破して開業しても、登記申請や相続業務等が主体の受動的。これはこれで大切な仕事であるけれど、自身の人生を顧みるとき、私の様な毀誉褒貶の大きい波瀾万丈なる経営者はそれ程多くはないと思われる。

    ならば、私の残された時間を有意義に、今まで培った経験とスキルを(成功と失敗)活かし、
    私にしか出来ない“危機回避実務コンサルタント”として、世の為人の為をと願い社会貢献すべく “fall down seven times, get up eight”(七転び八起)をコンセプトとして、セブンupエイト合同会社を立ち上げた。